【シンボリクリスエス】早すぎた引退 藤沢和調教師が描いていた幻のローテーションとは?

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【藤沢和雄調教師が考えていたシンボリクリスエスの新しい挑戦とは何だったのでしょうか?】

1999年シンボリクリスエスはアメリカのミルリッジファームで生まれた外国産馬です。

父クリスエスは1993年の北米リーディングサイアーに輝きました。母ティーケイ (Tee Kay)はアメリカのG3の勝ち馬でしだが、血統的にそれほど特筆すべきところはなかったと言われます。
しかし、シンボリ牧場の和田氏はサンデーサイレンスに変わる新たな種馬を見据えた形でこの馬を生産したと語っているそうです。

 

シンボリクリスエスは2001年10月13日に東京競馬場の芝1600mの新馬戦でデビューします。
単勝4番人気でしたが鮮やかに勝利、その後疲れのため放牧に出されます。

 

3か月後の2002年1月に復帰しましたが、セントポーリア賞(2着)、ゆりかもめ賞(3着)、500万下(3着)と惜しいレースを続け、なかなか勝ち切ることが出来ませんでした。

ようやく2勝目をあげたのは4月6日の山吹賞、次走はダービートライアルの青葉賞に向かう事となりました。

 

新馬戦から山吹賞までの間、シンボリクリスエスの鞍上は岡部幸雄騎手と横山典弘騎手でありました。それまで岡部騎手が3戦、横山騎手が2戦それぞれ手綱を取りましたが、
その時々の状況に応じて使い分けられていたそうです。

 

しかし、青葉賞では横山騎手は松田ひろよし厩舎のダディーズドリームに先約があり、岡部騎手には同じ藤沢厩舎のボールドブライアンという馬に騎乗予定でした。
ボールドブライアンについては岡部騎手でないと乗りこなせないという藤沢調教師の判断があったようです。

 

そこで、青葉賞ではダービーでタニノギムレットに騎乗を予定していた武豊騎手に1度だけの代打と言う事でシンボリクリスエスの騎乗を依頼したということです。

武豊騎手を背にシンボリクリスエスは青葉賞を圧勝します。

 

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