【サイレンススズカ 武豊騎手騎乗後に覚醒した理由とは何だったのでしょうか?】

サイレンススズカは快速スプリンターであったワキアを母に持ち、父は言わずと知れた名種牡馬、サンデーサイレンスの三世代目として1994年に誕生します。
生まれが5月とサラブレッドとしては遅い時期に生まれたこと育成所での外傷などもあり、3歳の冬になって栗東の橋田満厩舎に入厩しました。
1997年2月1日。サイレンススズカは京都の芝1600mでデビューを迎えます。
レースでは2着に7馬身の差をつける衝撃的な勝利を飾ります。
「遅れてきたサンデーサイレンス産駒の大物」と呼ばれるなど皐月賞・日本ダービーへ向けてマスコミや競馬ファンの注目を集め、同じレースでプレミアートに騎乗していた武豊騎手も「皐月賞もダービーも全部持っていかれる。痛い馬を逃した」と後悔したと言います。
続く2戦目には1勝馬ながら皐月賞を目指すべく皐月賞トライアルの弥生賞に出走、重賞2勝のゴッドスピードなどを差し置いてエアガッツに次ぐ2番人気に支持されます。
しかしスタート前にゲートをくぐって外枠発走となり、さらには致命的ともいえる10馬身ほどの大出遅れ。
レースでは見せ場は作りましたが8着に敗れ皐月賞の出走権を取ることはできませんでした。
皐月賞を断念せざるを得なくなったサイレンススズカはその後阪神の500万下を1秒1差と圧勝、しかも掛かったままでの勝利と圧倒的な能力を見せつけますが、同時に「気性の悪さ」という課題を抱えてしまいます。
陣営は日本ダービーを目指してトライアルのプリンシパルステークスに出走、このレースではダービーを見据えて抑える競馬を試みます。
見事に1番人気に応えて勝利をあげ、念願の日本ダービー出走を果たしたものの抑える競馬ではサイレンススズカの圧倒的なパフォーマンスが影を潜めてしまいました。
橋田調教師はダービーでの作戦を逃げるか抑えるのか悩んだと言います。
結局はサニーブライアンが逃げ宣言をしていたことも影響したのでしょうか、あるいは2400mという距離のためでしょうか抑える競馬を選びこれが裏目に出たのか折り合いをかき結果は9着。
サイレンススズカの最大の武器はその類まれなるスピードでした、抑えては良さを生かせないとしてダービー以降からサイレンススズカは逃げに活路を見出したそうです。

ダービーのあと3か月の休養をとったサイレンススズカは、菊花賞トライアルの神戸新聞杯に出走。
レースでは後に菊花賞馬となるマチカネフクキタルの2着に好走したものの、その次走は3歳馬ながら第116回天皇賞(秋)を目指すことになりました。
サイレンススズカにとって最初の天皇賞(秋)の挑戦でした。またこのレースから鞍上はベテランの河内洋騎手となります。
少し話は逸れますが、
サイレンススズカの新馬戦から神戸新聞杯までの6戦に騎乗した上村騎手から河内騎手への乗り替わりについては、個人的にとても興味深かったのでまた別の機会にでもご紹介できればと思っております。
さて、話を戻します。
1997年の天皇賞(秋)は1番人気がバブルガムフェロー、そして牝馬のエアグルーヴが2番人気、3番人気はジェニュインと続き、3歳馬ながらサイレンススズカは4番人気に支持されていました。
レースでは1000m通過が58秒5というハイペースの大逃げで見せ場を作りましたが、やはり歴戦の古馬の壁に跳ね返される結果となります。結果は6着。
勝ったエアグルーヴからは1秒の差をつけられますが、ハイペースで逃げたにもかかわらず3着だったジェニュインからは0秒1差とわずかな着差でした。
後に大逃げというレーススタイルの原型になったという意味でもこのレースの経験は後に大きなものとなったと言えそうです。
天皇賞・秋の後は、香港国際カップに選ばれたため、その前哨戦として当初の予定を変更しマイルチャンピオンシップへ向かいました。
しかし、調整不足もあって15着に敗退。その後陣営は当初の目標であった12月の香港国際カップに向かいます。
ここでサイレンススズカに転機が訪れます、その後、宝塚記念を除き最後のレースまで主戦を務める武豊騎手との出会いです。
香港国際カップでは、「依頼が来るのを待つのが騎手」というスタイルを崩して、新馬戦以来気になっていたサイレンススズカの騎乗を自ら申し出た武豊騎手を鞍上に迎えたと言われております。
レースでは1600mの通過タイムが同日の香港マイルの勝ち時計を上回るペースで逃げ、ゴール前まで粘るものの勝ち馬から0.3秒差の5着。
結局、4歳の秋シーズンのサイレンススズカは未勝利でした。しかし香港国際Cのレース内容は将来の飛躍を十分に予感させるものでありました。

そして年が明けた1998年、5歳となったサイレンススズカは、オープン特別のバレンタインステークスに出走し0秒7差で圧勝すると素質が一気に開花します。
続く中山記念で重賞初制覇を達成、小倉大賞典では重賞連勝を飾り、続く金鯱賞もレコードタイムで圧勝、特にこの金鯱賞では2着に1秒8もの差を付けており、衝撃的なレースでした。
それにしても、このサイレンススズカの変わりようには驚きを隠せません。 4歳の秋には1勝も出来なかった馬が、ここに来て大変身した理由とはどこにあったのでしょうか?
もしもサイレンススズカを晩成と評価するのであれば、それは「気性的に晩成」という意味かもしれません。

その後も宝塚記念でG1レース初勝利を達成と連勝は止まりません。
さらに今でも史上最高のGⅡと呼ぶ人もいる伝説のレース、毎日王冠ではエルコンドルパサー、グラスワンダーといった強豪を相手に脚を余しながら0.4秒差の圧勝と圧倒的なスピードを見せつけます。
重賞5レースを含む6連勝、しかも圧勝続きとなれば当然天皇賞(秋)も断然人気となり、マスコミも競馬ファンももはや勝利だけではなくその勝ち方にスポットが当てられていました。
また武豊騎手もかなりの手応えを感じていたようで
レース前に「オーバーペースにならないようにするのか?」という質問に対して「いや、(普通の馬にとっての)オーバーペースで逃げますよ」という趣旨のコメントをしたそうです。
1998年11月1日第118回天皇賞・秋。この日の主役は完全にサイレンススズカと武豊だったと言えます。誰もがサイレンススズカの勝利を信じ、単勝オッズは1.2倍。圧倒的な支持でした。
東京競馬場は午前中から異様な雰囲気に包まれていました。
しかし競馬場に訪れた13万人を超す競馬ファンはスタートから1分後、まさかのアクシデントを目撃することとなります。
天皇賞(秋)は大本命サイレンススズカの他にはメジロブライト、ステイゴールド、シルクジャスティス、といった馬が出走していましたが、多くの実力馬がサイレンススズカとの対戦を避けて12頭立てと少頭数となりました。
さらに毎日王冠、宝塚記念などで勝負付けが済んだ馬が多く、毎日王冠で記録した1分44秒9の走破時計からも、天皇賞(秋)で逆転できる要素を持つ馬は見当たらなかったと言えます。
レースでは覚醒したサイレンススズカが以前のような気性難を見せることなく落ち着いてハナに立ちます。
1000m通過は57秒4。
明らかにハイペースに見えますが武豊騎手は後に「これがサイレンススズカのペースでまったく無理をしていない」と語っており、まさにエンジンの違いといえるものでした。
誰もがレコードタイムでの勝利を期待しておりました。
しかし3コーナーを過ぎたその瞬間、サイレンススズカは左前脚に故障を発症して競走を中止、武豊騎手は手綱を引き4コーナー奥で下馬、ゴールに辿り着くことはできませんでした。
そして、ファンが見守る中その結果は残酷なものでした。
左前脚の骨折による予後不良、安楽死処分となってしまったのです。
圧倒的な勝利が期待された天皇賞・秋の舞台でまさかの結末、多くの競馬ファンが嘆き悲しみました。
サイレンススズカに悲劇が襲った第118回天皇賞・秋、レースを制したオフサイドトラップの時計は1分59秒3。
このタイムに関して後に武豊騎手は、「サイレンスがそんなに早くバテる訳ない。やっぱり千切っていた。」というコメントを残したそうです。
数々の名馬に跨がった武豊騎手が、ディープインパクトに出会うまで「最強」と認めたサイレンススズカ。
もしも、サイレンススズカが無事であったならばきっと天皇賞も楽勝であったと信じます。
そして、その後のレースでもどれだけの強さを見せてくれたのでしょうか。
海外挑戦やサイレンススズカ産駒がどんな走りをしたのか、未だに思い出すと悲しく、残念でなりません。
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